ご来場ありがとうございました!(第47回西荻ブックマーク「七〇年代は やっぱり劇画の時代だった。」)

第47回nbm

第四十七回の出演者は、七〇年代屈指の劇画誌としてマンガ史に残る「増刊ヤングコミック」の元編集者・橋本一郎さんと戸田利吉郎さんのおふたり。そして、「QJマンガ選書」シリーズなどマンガ関連書籍を数多く手掛けてこられた編集者・赤田祐一さんです。

会場には、編集者、マンガ家、マンガ研究者などを中心に、熱心な劇画ファンのお客様が集まってくださいました。

プロジェクターから「増刊ヤンコミ」の表紙や誌面が映しだされるなか、まずは橋本・戸田両氏の紹介からスタート。

橋本さんは、朝日ソノラマ社員として、「オバケのQ太郎」ソノシートや新書マンガ・シリーズ「サンコミックス」創刊編集長をつとめた後、少年画報社に入社。少年誌の編集部を経て、「増刊ヤンコミ」へ。退社後の現在は、文筆家として活躍されています。

一方の戸田さんは、大学卒業後、少年画報社に入社。「少年キング」で望月三起也などを担当された後、橋本さんが立ち上げた「増刊ヤンコミ」編集部へ異動。雑誌休刊後は「ヤングキング」編集部などを経て、一昨年、少年画報社社長に就任されました。

戸田さんは少年時代に読んだ平田弘史の作品に衝撃を受け、マンガ家をめざした経歴を持ちます。学生時代には貸本マンガ誌に作品を発表したこともあったとか。そんな戸田さんが、「鋭角的」で熱気ある劇画誌を作るべく試行錯誤していた橋本さんと出会い、両者がタッグを組むことで生まれたのが「増刊ヤンコミ」でした。

七〇年代は「ヤンコミ」をはじめ、「漫画アクション」「ビッグコミック」などの青年誌が台頭した時期であり、同時にいわゆる「三流劇画」、エロ劇画全盛の時代でもありました。劇画黄金期と言ってもいい当時を彷彿させる、作家や編集者のエピソードが、おふたりから次々と語られていきます。

原稿執筆中、登場人物になりきっていた平田弘史の迫力。とにかく遅筆で、原稿が真っ黒になるまで下書きしていた山上たつひこの粘り。原稿の遅さに手塚治虫を殴ってしまった他誌の編集者の顛末(橋本さん曰く「手塚さんは暴力に弱かった」!)。そして、鬼才・石井隆の発見と、ポップな老大家・杉浦茂や気鋭の若手・大友克洋が編集部に原稿を持ち込んできた経緯……。

おふたりの軽妙な語り口に、客席からはときおり笑い声も起こります。

さらに、合間に語られた当時の雑誌の制作事情(通常は原稿を写真製版してフキダシ部分に穴をあけ、セリフを活字で組み校正刷を出していたが、原稿が遅い作家に限っては写真植字を使っていたこと)、性表現の問題をめぐる鉄道弘済会や警視庁との軋轢等も、当事者ならではのリアリティに満ちた貴重な証言でした。

「増刊ヤンコミ」には、平田弘史や山上たつひこをはじめ宮谷一彦や松森正など原稿の遅い作家が揃っていました。なぜそんな書き手ばかりが集まったのでしょうか?
「マンガって、その作品にかけた熱量が怖いくらいモロに読者に伝わるんです」と橋本さん。だからこそ「原稿の早い遅いではなく、作品の熱量の高さだけが基準だった」。他誌の編集者が「大人の対応」で遅筆の作家を遠ざけていくなか、逆にそうした作家たちと徹底的に付き合うことで、他にはないパワフルな作品を生み出そうとしたのが「増刊ヤンコミ」だったのです。
「宮谷さんや平田さんといった原稿の遅い、ある意味やっかいと思われていた作家を一手に引き受けたことが、この雑誌を面白くしたポイント」と赤田さんはまとめます。それゆえ、読者のみならず作家の側からも熱心な支持者を多数生みだしたのだ、と。

戸田さんは作家に仕事を依頼する際、必ず腹案を持って臨んだそうです。どんなベテランや人気作家にも「何でもいいから描いてください」とは決して言わなかった。常に編集者として、自分のアイデアと熱意を作家にぶつけていた。つまり、一回ごとの作家との出会いに自分を「賭け」ていた。

それを受けて、「自分の感覚を信じて、非妥協的に相手に向かっていくこと」が何より大事、と橋本さんが応えます。橋本さんもまた、〆切ギリギリになっても、代原(間に合わなかった場合、代わりに使うための原稿)は持たず、「気迫で押して」作家から原稿を取ったそうです。

こんな息の合ったやりとりからも、おふたりが同じ思いで雑誌作りに臨んでいたことがわかります。こうした姿勢があってこそ、今見ても強烈な迫力に満ちた「増刊ヤンコミ」の誌面が生まれたのに違いありません。

休憩を挟むことなく繰り広げられた、約二時間の濃密な劇画談義。最後は戸田さんのご好意で、ご自身で作られた非売品の冊子を希望者にプレゼントするなごやかな雰囲気のなか、閉幕となりました。

何はともあれ、七〇年代から現在まで、マンガへの変わらぬ情熱を持ち続けているおふたりの持続力に驚かされた二時間でした。どんな時代になろうとも、結局本作りで重要なのは作り手の志だけではないか――と、そんなメッセージを受け取った気がします。三十年以上前の雑誌をめぐる内容でしたが、今のマンガにはない劇画の熱気と面白さはしっかり伝わったのではないでしょうか。

なお橋本さんは、現在手塚治虫についての著書を準備中とのこと。これまでとは一味違う手塚論、マンガ論の誕生が期待できそうです。完成を楽しみに待ちましょう!

スタッフ:宮里


ご来場ありがとうございました!(第46回西荻ブックマーク「〈佐藤泰志の文学〉ふたたび」)

“来場者がおのおのの言葉で佐藤泰志を惜しみ、彼の作品の魅力を語りあう”場となった第27回西荻ブックマーク「そこのみにて光り輝く~佐藤泰志の小説世界~」(2008年11月)。約2年前のことです。

そして没後20年の命日にあたる10月10日、「『海炭市叙景』公開記念 〈佐藤泰志の文学〉ふたたび」と題して、スタジオマーレに4人の方々に登場して頂きました。

福間健二さん

前半は、詩人で映画監督、首都大学東京教授の福間健二さんです。第27回でもお世話になった方です。佐藤泰志の友人でもあった福間さんからは、佐藤文学とはどういうものかをお話し頂きました。

佐藤泰志は村上春樹と同じ1949年生まれ。佐藤泰志の時代は村上春樹の時代でもあったのですが、福間さんは佐藤泰志の気質・個性はどう出来上がっていったのかと語り始めました。貧しさと豊かさの境目の時代に育ち、学校に残って帰りたがらない子どもだった。図書館や文芸部に入り浸るような……俳句・短歌・散文などの投稿が盛んだった環境で活躍した、早熟な作家の学生時代が浮かび上がってきます。

その頃には小説家になる以外の人生の選択肢が無くなっていた。そして中上健次、村上春樹らに比べて学生作家としてリアリティがあったと思うと、福間さん。同人誌に掲載して後に大手文芸誌に掲載してしまった「もうひとつの朝」の事情。北海道では期待されていた作家の、長い苦労と闘病。“同人誌に書いている作家を出版界が食べていける作家に育てていない”と静かな憤りを込めて文芸誌の役割を問いました。

今回文庫として復刊された『海炭市叙景』(当日、西荻ブックマーク&音羽館から来場者の方にプレゼント)は、同人誌での発表から文芸誌『すばる』へと掲載が移り、途中で打ち切られた作品集です。作家は残りをまとめて書こうとしていた、もしこのまま続けられていたら1990年の自殺は無かったかもしれない。本当は帰りたくなかった故郷・函館へ戻って、作中で函館を作りなおして、今の世の中で生きている事の大変さを書いてやろうとしたんだと思う、という最後の作品についてのお話は、皆さんの心に深く残ったのではないかと思います。

佐藤泰志とはある意味で文学的な作家だった、出てくる登場人物がみな佐藤泰志である、と締めくくられました。福間さんによれば、本になってない作品がもっと沢山あり、もっと面白い作品もあるということです。

福間さんの話を静かに熱心に聞く会場の雰囲気から、お客さん(中には佐藤泰志を知る方も)のこの作家と映画化への思いが伝わってきました。質問コーナーでは、話すのはまずいんだけど、と言いながら答える場面もありました。

越川プロデューサー、熊切和嘉監督、岡崎武志さん

ここで休憩を挟んで後半へ。

スローラーナー代表で映画プロデューサーの越川道夫さん、映画『海炭市叙景』監督の熊切和嘉さんをお迎えし、司会進行役を書評家・ライターの岡崎武志さんに務めて頂いて、スクリーンで映像も見せながらのトークとなりました。

全体からよいシーンだけを抜いてまとめた映像を見ながら、お二人の映画化に至るきっかけを岡崎さんが質問しました。企画が立ち上がってから映画公開まで2年弱。北海道出身の熊切さんは、2年前の函館映画祭の時に原作を読んだそうです。越川さんは、クレインから出版されている『佐藤泰志作品集』を読んだ時、映像でいけるかなと思ったそうです。

函館の方々が資金集めをしてくれて、企業でも自治体でもなく、市民主導の町ぐるみの規模の大きさという点では初めてじゃないか、と越川さん。

ファンタジックでないリアルな函館を撮っているけれど、海炭市という設定はネックにならなかったか?との質問に、架空の海炭市でも実在の函館市でもなく、中小の都市のあり方の二重写しで撮ると考えていたから問題なかったと越川さんが答えました。80年代の話だけれど、今の話としての内容が必要だと考えた越川さんと熊切さんは、撮影中、数々の僥倖に恵まれ、火事やクレーンのシーンなどよい画(え)が脚本前から撮れたそうです。

現地で急きょ借りた軽トラの会社名を使ったこと、撮影に使う家は実際に人が住む建物を探したこと、電車のシーンの撮影の工夫、猫を飼うおばあちゃんやスナックのママさんは現地でスカウト、つまり役者ではなかったこと(これは驚きです)等々、試写をすでに見た人は一つ一つに驚き、これから見ようとしている人はとても期待がふくらむ、楽しいエピソードが続きます。

出演者についてのエピソードを聞かせて欲しいと言われて、これに対しても映画を一層楽しめるお話がお二人から聞けました。谷村美月さんのちょっとした仕草がすごくよかったこと、原作のイメージと違ったけれど演じてもらっていい感じだと思ったという竹原ピストルさん、それから難しい役を最も信頼している加瀬亮さんにお願いして、現地の役者やエキストラの中で混じって撮影をしてもらったこと、小林薫さんや南果歩さんのベテラン陣にお願いした演技について……話はつきない中、時間も残り少なくなり、お二人から映画への最後のコメントをお聞きしました。地元で暮らしている風景を撮りたかったと、越川さん。親の仕事に対して自分の映画の仕事が後ろめたさがあり、それに対してこの映画を撮ったと、熊切監督。質疑応答もジム・オルークの音楽や役者さんについての質問などが参加者から出てまた盛り上がり、今後の公開への期待を皆さんで確認して終了しました。

11月27日から函館で完成試写会と先行上映が始まり、東京国際映画祭のコンペティションに選ばれています(日本からは2作品)。また、10月6日に発売された小学館文庫『海炭市叙景』も北海道を中心に売れ行きが好調です。映画も作品も、ぜひご覧になって下さい。


スタッフ:加藤

※11/3、佐藤泰志の文学の舞台の一つであり、函館出身の彼が長年住んでいた街・国分寺でも、映画『海炭市叙景』公開記念イベントが開催されます。
「佐藤泰志ゆかりの国分寺で、海炭市叙景の世界に出会う」
11月3日(水・文化の日)14:00~16:00
会場 : 国分寺市エルホール
» 詳細はこちらから



ご来場ありがとうございました!(第45回西荻ブックマーク「古本・トロイカ・セッション」)

第45回西荻ブックマーク

今野スタジオマーレにて開催された「古本・トロイカ・セッション」。

ゲストは3人で、『彷書月刊』の編集長・田村治芳氏、石神井書林の内堀弘氏、ライターで均一小僧で、古本といえばこの人・岡崎武志氏。田村氏は前日まで無理だろうと予想されていたが、なんとか来ていただいて、本当にありがたい、豪華な顔ぶれとなった。

会場は40人が集まるほどの大盛況。3人のお話は滑らかに、田村氏のお話はゆっくりと、進んでいった。

トークの前に、西荻ブックマークのスタッフが、『彷書月刊』編集部を訪れる一場面がスクリーンに映し出された。
神保町の『彷書月刊』編集部は階段を上がると、そこには返本の山が……、そして中に入っても本の山、山、あるいは資料の山ばかり。所狭しと言わんばかりにうず高く本が積まれていた。
この神保町の編集部は3つめの場所で、そこから、青林堂のビルも更地になったと話題が移り、「更地になったとこを写真にとって、南伸坊に送った」と田村氏が言っていた。
すると岡崎氏が「僕は古本屋の外観の写真をとりだめしている」とコメントし、将来、高値になるぞ、と予言していたのが面白かった。岡崎氏の言うように、古本のガイド本などをみても、お店の外観はあまり写っていない。

次に『彷書月刊』のなりたちへと話は移行していく。
若月隆一氏が田村氏を編集長にした頃のお話。「彷書月刊」というタイトルは、若月氏の提案で、書物の中を彷徨う、書物をたずねるという意味があるということで、それに決定した。
本を売るには自家目録を作るか、『古書通信』にのせてもらうしかない、それで目録を作るときも90円で送れるように半分以下にしたという。

次に『彷書月刊』の歴史を飾った人達の話が出てきた。新劇といえばこの人、松本克平氏。名優だが、本も出していて、ファンに自分で売っていた。初代発行人の堀切氏が本を出したいといっていたという。日本の映画美術監督の木村威夫氏と、同人雑誌を作ったことがある田村氏は、彼に連載を頼んだこともあった。背広とネクタイで古本屋に行き、しかも均一台をあさるという福田豊氏のお話も出てきた。作家・五木寛之氏のエピソードも出た。彼は竹中英太郎氏への義理から特別に書いてくれたのだった。竹中氏は、五木寛之氏原作の映画に油彩の絵を描いていた。井伏鱒二氏にも執筆依頼したが、彼には書けませんと断られた。

300号も続いたのは毎回特集を組めるだけの多彩な執筆陣がいたということが大きい。だからこそ出会いが特集をつくるという、田村氏の言葉が印象的だった。おまけに「1に出久根、2に中山、3、4がなくて、後はずっとない」と会場を笑わせる一言もあった。編集部の外側だけではなく、内側の強力なメンバー・皆川秀氏の存在も忘れてはならない。彼が来てから編集の出来る雑誌になったと田村氏。インタビューの名人でもある皆川氏は後半の120冊を作った。

古本屋と雑誌作りが上手に連環した。雑誌の特集で要る文献が古本屋にあったりと、互いが孤立せずに連携していった。さらには岡崎氏が言うように、『彷書月刊』が、本の面白がり方を提案し続けたからこそ、ここまで続いた。

田村氏は「古本屋は客によって鍛えられる」と。客が皆、軽い本ばかり求めれば、そういう店になる。ただ、最近はそういう客がいないというか、いるんだが、見えにくくなっている、と語る。ネットや電子書籍の普及のせいで、方向性が見えにくくなってきた、とも。古本屋で新しいことを考える奴は皆無だ、と田村氏。たまに考える人がいる、それが北海道のサッポロ堂書店さんだ、と。この人は「環オホーツク」ということを考えた。日本で考えれば北海道は北方だが、北海道・シベリア・ロシアとこの3つで考えれば南方だと。内堀氏は「全く新しいものを作るのは難しいが、今まであったものを違った風に見る」と言い、岡崎氏も「本を買っていくと物の見方がどんどん狭くなっていく」と。古書会館で、年配の客が「何にもいい本がないのう」と言ったとき、田村氏は「こんなにあるじゃないか」と言った場面を語った。

『彷書月刊』は中綴じから平綴じへと変わっていくが、平綴じの頃は『図書』『波』といったPR誌と見た目が同じで、書店で「え、これ、売るの?」と皮肉を言われた、というほろ苦いネタも出てきた。そんな『彷書月刊』がここまで続くと思っていたか、と岡崎氏に聞かれた田村氏は、定期購読者を3ヶ月・半年・1年の3種類で募集した時に、一番多かったのが半年で、まぁ半年位は続くだろうと思った、と答えていた。

岡崎氏が感動したという『彷書月刊』2008年9月号にポラン書房の石田氏が書いた文章を朗読。「本があれば人はきっときてくれる」という一文が印象的だった。さらに「本の力をないがしろにする巨きな力は、人と人、人とモノとのつながりを引き裂く方にも作用しているようです」と深い言葉で締めくくり、休憩。

後半は『昔日の客』の話でスタート。
関口良雄氏は、大森で25年、山王書房という屋号で古本屋をしていた人で、『昔日の客』は1000部刷られた。
そして、今年、夏葉社から『昔日の客』が復刊された。この夏葉社というのは島田潤一郎氏が一人でやっている超零細出版社だ。

『レンブラントの帽子』の次に『昔日の客』をやるとは!と岡崎氏が驚きを隠さずに理由を尋ねる。島田氏は古本屋の人たちに京都の「善行堂」に行けと言われて、行ったそうだ。梅田の紀伊国屋書店でさえ、『レンブラントの帽子』は10冊しか置いてくれないのに、善行堂は30冊も置いて、しかも売り切ってくれた。そこから、山本善行氏のブログに、『昔日の客』を島田氏に頼んでみようか、と知らない間に書かれていた、と会場を笑いに包む。

会場には関口氏の奥様とご子息も見えていた。ご子息は復刊する本のことで島田氏と何度も話し合われた。この本は何ともいえない布の表紙のてざわりがいい。これは布にしてほしいとご子息が希望をだされ、島田氏も普通のハードカバーで出すよりは30万は高くなるが、OKしたのだ。この本について田村氏が毒舌全開。布はすぐに手ずれをするから、新刊書店で売り切らないとね、と島田氏に忠告。古本屋に流れたら、すぐに一万円になるよ、と。会場の人は殆ど買われました(笑) 表紙を開くとすぐにある山高登氏の版画もご子息がリクエストされた。

「森崎書店の日々」という映画の1シーンでこの本がちらっと登場する。それを聞いただけで、この映画を見なければ、と思ってしまう。書店員が『愛についてのデッサン』という本を読む場面で、カウンターにおかれているのがこの本なのだ。

山王書房では売り上げゼロの日はなかったというエピソードも出た。

ラストはじゃんけん大会となる。音羽館さんからのプレゼント本や、今日のゲスト3人のサイン色紙などをかけてのバトルがしばし繰り広げられて終了。

スタッフ:増田

» 出演者のお一人、岡崎武志さんによるレポートはこちら
西荻の夜 – okatakeの日記 http://d.hatena.ne.jp/okatake/20100927

ご来場ありがとうございました!(第44回西荻ブックマーク「つれづれなるままに古本」)

第44回nbm

第44回西荻ブックマークは、「文壇高円寺」(http://gyorai.blogspot.com/)でおなじみの荻原魚雷さんが、新著『活字と自活』(本の雑誌社)を発売されるのを記念してのトークショー。ゲストには、魚雷さんたっての希望で、わめぞ代表の「古書現世」向井透史さんをお迎えしました。

西荻ブックマークに何度も足を運んでくださっている魚雷さん初の登場とあって、会場はアットホームな温かい雰囲気。普段物静かな魚雷さんから、普段からわめぞで共に活動して気心知れた向井さんが多様なエピソードを引き出して、会場を沸かせます。高校時代に革命を志す、ブラックジャーナリズムに身を投じて散々な目に遭う、漫画のセドリで生活費を捻出、中央線に住んでいたのに電車に乗らず自転車で移動、などなど。
「魚雷さんがあんなに話したのを初めて見た」「魚雷さんは一週間分話したのではないか」という声も聞かれるほどのスムーズなトークで、2時間があっという間に過ぎました。

活字と自活また、当日会場では『活字と自活』の先行発売が行なわれ、希望者には魚雷さんがイラスト入りで丁寧にサインを入れてくださいました。
古本好きはもちろん、もやもやを抱えながら生きる人は必読の『活字と自活』は本の雑誌社から好評発売中ですので、ぜひ書店で手に取ってみてください。
山川直人さんの表紙イラスト、藤井豊さんの写真(最初の写真は魚雷さん本人!)、下坂昇さんの版画、バラエティブックのような段組みなど、アイデアが詰まった本の作りも話題を呼んでいます。

なお、当日の模様は魚雷さんのブログに書かれておりますので、引用させていただきました。お楽しみください。

スタッフ:山崎

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昨日、西荻ブックマークで古書現世の向井透史さんとトークショー。

三年前にメルマガの早稲田古本村通信で「高円寺だより」という連載をはじめたころ、向井さんから「今、二十代くらいの若い人に向けた文章を書いてみては」というようなことをいわれた。
ちょうど同じ時期に、無責任な立場ながら、わめぞの活動に参加させてもらうようになり、それまでどこにいっても若手だったのが、いつの間にか、自分が年輩組にいることに気づいた。
仕事が長続きしない。人間関係がうまくいかない。生活に困っている。
今の二十代で本に関する仕事をしている人の境遇は、わたしが二十代のころよりもはるかに厳しい。

若い人といろいろ話をしているうちに、こうすればよかった、ああすればよかった、とおもったことがある。昔の自分にやれといっても、たぶん、できなかったことかもしれないけど、そういうことをいったり、書いたりしてもいいのではないかとすこしずつ気持が変化していった。
そのきっかけになったのが、向井さんの一言だったのである。

『活字と自活』は、不安定な仕事をしながら趣味(読書)と生活(仕事)の両立する上での試行錯誤をつづったコラムとエッセイを集めた本といえるかもしれない。

トークショーの最後のほうで、しどろもどろになりながら、今回の本で紹介している中井英夫の『続・黒鳥館戦後日記』のことを話した。

西荻窪のアパートに下宿していた若き日の中井英夫は「僕に、どうにか小説を書ける丈の、最低の金を与へて下さい」と綴っている。

この日記には次のような理想の生活を書いてある。

お客がきたら米をごちそうし、一品料理でもてなしたい。新刊本屋、古本屋をまわって好きな本を買い集めたい。レコードがほしい。ウイスキーや果実酒を貯蔵したい。友達に親切にしたい。芝居や映画が見たい。

自分の生活が苦しいときに、現実を忘れさせてくれるような壮大な物語を読みたいとおもうときもあるのだが、どちらかといえば、わたしは直視したくないような現実をつきつけられつつ、それでもどうにかなるとおもえるような本が好きだった。

気がつくと、トークショーでは貧乏話ばかりしていた。

――文壇高円寺: 活字と自活の話

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ご来場ありがとうございました!(第43回西荻ブックマーク「出版流通危機一髪?」)

第43回nbm

6月27日は、時折雨がパラつく蒸し暑い日でした。通常より少し遅い18時半に、西荻ブックマークでは初めてとなる、会場のKISSCAFEがオープン。近隣の飲食店の夕方の雰囲気とも相まって細い通りは少しずつ賑わいを見せ、スタートの19時頃には50名の参加者でぎっしり埋め尽くされました。

第43回は「出版流通危機一髪?」というテーマ。ゲストは取次会社(株)大阪屋の鎌垣英人さんと業界紙『新文化』前編集長の石橋毅史さん。

取次会社の人が表に出ることは少ない中で、鎌垣さんは2005年に刊行された『新世紀書店』(ポット出版)という書籍の中で石橋さんと対談をし、他にも勉強会などで発言をされています。デリケートな部分もあるとは断りながら、取次の仕事や役割についてできるだけ話したい、という鎌垣さんは、『新文化』に在籍中から取次会社で唯一と言っていいほど話しやすい相手だった、と石橋さん。

対談は、いま話題の“電子書籍”からスタート。鎌垣さんは、業界紙の一面や業界内の勉強会、そしてイベント等で電子書籍の話題は飛び交っているが、書店は結局“紙”の本を売る立場だから今すべきことが大事であって、本を売る努力をするしかない……という意見。かつてシグマブック(松下)やリブリエ(Sony)が業界のニュースを賑わせたことにも触れつつ、取次は実は電子書籍対応の部署は前から作っていたが、以前のアプリは取次にマージンを持たせる動きだったのに対し、今回は紙を扱う取次にはマージンが入ってこないことが大きな違いだと説明しました。ビジネス書のベストセラー『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』で推定1~3万ダウンロードという数字は2兆円産業のなかで大きなものではなく、今は実験の段階で出版社は数字を見ているのだという読みです。数万人いると言われる出版関連の従事者の食い扶持を稼げるのかという視点なしに、電子書籍に過大な夢を抱くのは現実的とは言えないでしょう。

石橋さんは、出版社が“電子書籍”に慣れてきてコンテンツがどのデバイスに対応するかが話題になり、紙か電子か?という状況になりつつある現状を、『死ねばいいのに』(京極夏彦)や『親鸞』(五木寛之)といった紙と電子書籍の両方が売れた例を挙げて説明。また、紙と電子の価格差について小学館や講談社の例を挙げ、また業界三者(出版社・取次・書店)がそれぞれバラバラな方向を見ているのではないか? 態度の差を感じると指摘し、従来型を維持しつつも、出版社→電子へ/書店→切り捨てられる?/取次→効率化を唱えて書店を選別に入っている、囲い込んでいる……そんな空気を感じると疑問を投げかけました。

それに対し、取次の立場や対応は変わらないし、取次へのそういった指摘は昔からあったと答える鎌垣さん。序盤から熱のこもったやり取りです。

話題は古書と新刊を並売する書店のケースへ。石橋さんは、昔は強い抵抗があったが、今は何か面白いことをやらなくてはと書店が取り組んでいる、今後も増えるだろう、と予測。それを受けて鎌垣さんは、新刊を新刊に近い状態で持っていくならそれを新刊書店が買い取るというシステムは“あり”だろうし、例えばあるテーマの棚を作る時に必要な本が品切れで古書しかないなら、それで棚作りをする手もある、と同意しつつも、消費者にはよいが著作者にはお金が落ちず、ただ安いだけで面白くない、と苦言も。

鎌垣さんが中心となって製作された大阪屋の小冊子『本歩』の狙いとその成果からは、書店と取次のホットな関係も伺い知れ、お客さんの頷き度もアップしたところで前半終了。後半は、お客からクレームのある“搬入発売”のケースの説明から再開。“取次悪玉論”がいちがいに正しいとは言えない理由など、きわどい話題が続出し、「ツイートしないでね」と協力を求める一幕も。

しかし、石橋さんからはアマゾンの初期の物流に関わってきた側の鎌垣さんにいくつか聞きたいと容赦のない質問が。販売データを活用したシステム、巨大な物流倉庫、“きれいな本”論争などなど……お客さんが知りたかったその凄みが明らかにされていきました。

<質疑応答>

――「電子書籍が参入してきて、出版社と著者の対応はどのようになる? 具体的に説明してほしい」

鎌垣:著者だけでは良質なテキストの提供は難しい、編集の手が必要。この著者のこの新作はここだけでしか販売できないというケースは必至だけれど、電子と紙の連動はどう変わっていくのか…まだわからない。5年で紙の書籍は半減などと言われるほどではないけれど、徐々に減っていくのは確かで、取次が置いていかれるのは当たり前。

――「新規書店は大型書店でも陰りが見えていないか? 逆に小さい書店がゼロから出発できるのではないかと思うが、取次に希望の棚構成を相談しても難しい。取次の立場からどうなのか。」

鎌垣:“町の書店活性化論“は昔からある。しかし、実際は回転率や坪単価を考えると食べていくのは雑誌を重視しないと難しい。往来堂書店は雑誌スペースを奥にしたけれど売り上げの半分は雑誌。セレクト系書店の成功例はあるが、取次がサポートをしても書店に力がないと……

――「新刊の刊行点数の減る時期はいつ頃か? 流通形態を取次内部からどうしようとしているか?」

鎌垣:取次は1日200点ベースを扱える生産ラインを組んでいるが、増強したが今はオーバー。扱いを絞らざるを得ないだろう…新刊点数はまだ増えていくと思うが、今そこへ電子書籍が入ってきている。既刊の電子化が先に始まるだろう。
石橋:10万点まで対応できるのか?
鎌垣:10万点まで行くと思うが、実際は企業としては売り上げが伴わない。返品が半分位になるし生産ラインの増強は無理だろう。取次が返品量をセーブするのは企業としての発想だ。

まだまだ質問や意見が出そうなトークでしたが、予定の9時をちょっと過ぎたところで終了。そのまま約20人ほどの方々が会場での懇親会に参加され、お二人を囲んで活発に意見交換をしていました。

蒸し暑い夜の空気に、出版と出版業界の今後を考える皆さんの熱気も加わった、濃い3時間半でした。

(文責:スタッフ・加藤)