午後4時半開場、5時開演。開演の時点で、会場はほぼ満席です。客席はリアルタイムでの井田真木子読者の世代と、後追いの若い世代が半々といったところ。
生前の井田さんと面識はないという、北沢さん、北條さん、清田さん。
実は三人ともに、作家・井田真木子との出会いは遺作『かくしてバンドは鳴りやまず』だったとか。そこから著書を遡って読んでいく過程で気づいた初期~晩年にいたる文体の変化と、試行錯誤の末にたどりついた『かくしてバンドは~』のスタイルについて…と話題は進みます(「この作品で新しい文体を獲得した井田さんは、次へ進もうとした矢先にいなくなってしまった」北沢さん)。
北條さんは、井田さんが詩を書くことから出発した点に着目、若き日の井田さんが寄稿した詩誌「無限」を持参してくださいました。著作撰集にも一部収録された詩集『雙神の日課』とともに、井田真木子の知られざる原点が垣間見える貴重な資料です。
一方北沢さんは、井田さんが大学卒業後、早川書房に勤務していた経歴に触れます。井田さん在籍時(70年代後半)の同社は、海外ノンフィクションを盛んに翻訳刊行していた時期でした。このことが、井田さんの仕事に影響を与えているのではないか? なるほど、『かくしてバンドは~』では、会社員時代に出会った『さもなくば喪服を』(L・コリンズ&D・ラピエール)の鮮烈な記憶が語られていました。
また井田さんの文章には、並び立つ二者を登場させ、そのうちの一方へ思い入れていく特徴的なスタイルがある、とも(K・バーンスタインとB・ウッドワード、長与千種とライオネル飛鳥など)。いずれも、著書を読みこんだ人ならではのハッとさせられる着眼点です。
そして、『井田真木子著作撰集』の編集・発行人である清田さんは、井田さんのご両親とのやりとり(お父様は見本ができる数日前に亡くなられたそうです)や、担当編集だった方たちの反応(「どなたも井田さんの思い出を次々語ってくれました」…)等、本が出来上がるまでについて、版元ならではのエピソードを交えて語ってくださいました。
印象的だったのは、井田さんが知人たちへ、互いに内容が食い違う話を語っていたという事実です。たとえば、「自分が聞いた話では、井田さんの本名は真木子ではなく槇子だとか」と北條さん。それを聞いた清田さんが井田さんのお母さんに確認したところ、そうした事実はなく、本名は「真木子」で間違いなかったそうです。
井田さん本人が発信源と思しい真偽不明の噂がいくつも残されていること。ここからわかるのは、井田さんが本来的に「物語る人」だったことだ(「たとえば寺山修司のように」)、と北沢さん。議論は「綿密な取材に基づき、主観を排し、事実のみに立脚して、ある事件や現象を描く」とされる従来のノンフィクションと、井田真木子の手法の違いへと続いていきました。
もう一点、北沢さんの発言で興味深かったのは、出世作『プロレス少女伝説』についての指摘です。曰く、『プロレス少女伝説』は「サブカルチャーを題材にしたはじめての大宅壮一賞受賞作だった」。しかし、それ以降、同路線の受賞作が出なかったことが、その後の日本のノンフィクションを狭いものにしてしまったのではないか? 北沢さん自身の仕事への姿勢に支えられた説得力ある言葉でした。
途中休憩をはさみつつ、2時間超のトークはここで終了。さまざまな方向に話題が広がる(そこからさらに議論が発展しそうな)中身の濃い時間となりました。
清田さん曰く、「本の売れ行き次第では、著作集の続刊も作りたい」とのこと。井田さんが残した作品の数々は、読み継がれるべきリアリティを今も失っていません。この日来てくださった方々にも、その魅力はしっかり伝わったのではないでしょうか。
今回の本には入らなかった『小蓮の恋人』や『十四歳』が読める続刊が、ぜひ実現してほしい。そのためにも、『井田真木子著作撰集』がいっそう多くの読者を得るよう、心から祈ります。
(宮里)
追記/今回は特別に、北沢さん、北條さん、清田さんからコメントをいただきました。
続きを読む »