1956年は、ジャズ史上で重要な年なのだそうです。というのも、ビ・バップのキング・チャーリー・パーカーが死去したのが55年。この天才の死を経て、第二世代のミュージシャンたちが各自の才能をいっせいに開花させたのが、翌56年だったからです(代表的なアルバムにS・ロリンズ「サキソフォン・コロッサス」、M・デイビス「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」等)。大谷さんは、こうした話題を戦前のスウィング・ジャズとM・デイビスの曲を聴き比べつつ、具体的に進めていきます。
自分の関心外のものには目もくれず、ひたすら好きなもの――レコード、ミステリー小説、海外の新雑誌や雑貨等々――で身辺を満たして生涯を送った植草さん。そのスタイルが若者の間で共感を呼び、人気者となったわけですが、その一方で、植草さんは一般にイメージされているよりもはるかに偏った好みを持つ人でもありました。たとえば、植草さんの文章には、東京オリンピックも万博もビートルズも登場しない。これは、60~70年代カルチャーの世界で一世を風靡した文筆家として、かなり特異なことではないか?
社会的事件への無関心と徹底した自己本位。植草さんが当時J・コルトレーンらの「前衛ジャズ」にのめりこんで書いた文章をこうした視点から読み直すと、いわゆる「植草甚一像」とはかなり違う姿が見えてくる、と大谷さんは続けます。
20代後半で両親を亡くしているにもかかわらず、自筆年譜にはその事実にいっさい触れられていないこと。自叙伝「植草甚一自伝」でも、幼年時代から関東大震災までの話題に終始して、青年期以後の出来事はほとんど語らないこと。コルトレーン死去後の「スウィング・ジャーナル」追悼特集号へ、「コルトレーンの死はハプニングか」という非常に醒めたエッセイを寄せていること。
時代や実人生に対するこのクールな距離感は、関東大震災の体験に由来すると大谷さんは指摘します。この距離感に、大谷さんは植草甚一という人物の核心――孤独とニヒリズムを見出します。「散歩と雑学がすき」な「ファンキーじいさん」として、一見気楽な道楽者にも見える植草さんですが、それは震災による大きな挫折感と断念と覚悟の上に成り立つ生き方だった。だから、「植草甚一のような生き方」は、そう簡単に真似などできるものではない、と大谷さん。
植草さんが熱中した60年代ジャズ――コルトレーン「マイ・フェイヴァリット・シングス」やA・アイラ―「ゴースト」、E・ドルフィー「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ」――本来なら大衆的とはいいがたいこうした音楽を通じて、植草さんが語り続けたジャズ=ビ・バップ以降のモダン・ジャズという歴史観は、(その文章と風貌の魅力も手伝って)しっかりと根を張り、今も生き続けている。いいかえると、現代のわれわれが抱くジャズのイメージを決定づけたのは、実は植草甚一ではなかったか?……これはかなりハッとさせられる指摘でした。ダンス・フロアと縁を切って先鋭化したモダン・ジャズは、ビ・バップ~フリージャズという道をたどります。大谷さんは、ビ・バップ~フリ―ジャズの必然性と「カッコよさ」を十分認めつつも、ビ・バップ以前の再評価も含む新たなジャズ史の必要性を語ります。なぜなら、フリージャズはそこから継承・発展すべきフォームを持たない、一代かぎりの繁殖能力に欠けたキメラのような音楽であったから。
フリージャズ以降、隘路に入り込んだようにも見えるモダン・ジャズを、どうやって生き生きした「今」の音楽として再発見するか?
ここで流されたのが、まもなく発売になる大谷さんの新譜「JAZZ ABSTRACTIONS」。セロニアス・モンクやチャーリー・ミンガスの曲を大胆にサンプリングした、タイトル通りのアブストラクトなヒップホップ(!)であるこのアルバムの音は、まさしく現在進化形のソリッドな「ジャズ・ミュージック」として鳴り響いていました。
(宮里)