西荻文学散歩「木山捷平『軽石』を歩く 編」

 さる10月7日(日)の第4回文学散歩を開催しました。秋晴れのとても天気のよい日でした。

 タイトルにあるように、今回は西荻窪時代の木山捷平にスポットをあて、練馬区立野町の自宅から歩いて西荻まで来て軽石を買ったという短編『軽石』を取り上げて、それに『貸間さがし』などの短編も合わせながら、立野町に移るまでの戦後数年住んでいた場所をたどるコースを作ってみました。
これは岡崎武志さんの『古本極楽ガイド』(ちくま文庫:絶版)にある「木山捷平『軽石』体験ツアー』を、下敷きにしたものです。
 まず吉祥寺駅からバスに乗り、「立野町」のバス停で下車。木山捷平宅(現在は長男の萬里さんがお住まいです)へと向かいます。当散歩の会の顧問・吉祥女子中学・高校の萩原先生が今回いらっしゃったのですが、萬里さんとお知り合いで私たちが自宅前まで行くことを連絡して下さっていました。休日のところ玄関から出てきてくださった萬里さんとお会いできて、一同感激することしきり。ニコニコと対応して下さった萬里さんは、「これが短編に書いていた月桂樹ですか」などの質問にも答えてくださって、思い出をいくつか話して下さいました。庭で捷平氏がよくたき火をしていた姿を萬里さんは見ています。

 さて、木山捷平の散歩は吉祥寺通りをバスに乗らずに歩いて行くのです。そして、五日市街道と交わる交差点を武蔵野八幡宮を曲がって西荻窪方面へ。今回はその部分をはしょってバスを使いました。
『軽石』にある高井戸署西松派出所は、今はもうなくなっています。隣接している松庵稲荷神社はかつて西高井戸稲荷神社と呼ばれていました。余談ですが、稲荷神社の裏側に円光寺というかつてあったお寺(明治に廃寺になった)の碑があります。江戸時代に松庵の豪農が円光という僧と、紫草(根から色がとれる)栽培を始めて大当たりしたという説明があります。

 作家はそこで休んでいるうちに眠ってしまいます。今はない隣の交番の巡査に起こされて、再び歩いて南銀座商店街を西荻窪駅の方へ曲がると、“二軒長屋の葬儀屋”ではなく「西荻祭典」とこじんまりとした葬儀屋があります。岡崎さんの記述によれば、「西荻祭典」のご主人を思われる人に隣にあった雑貨屋の記憶を確認しています。その店も今はありません。南口の駅に向かっていくと古書店「盛林堂」がありますが、この店は木山さんが訪れたことがあるそうです。
さて、散歩は折り返し地点を過ぎ、作家はここで北口に出て東京女子大方面へ歩いて(帰って)いきます。

 散歩メンバーはここで休憩。西荻で一番古い洋菓子屋といえば「こけし屋」。戦後にこけし屋の喫茶店ができ、レストランも始まって、やがて文化人が集まって定期的に「カルヴァドスの会」を開催するようになりました。木山捷平はこの会に参加したことがありました。
別館のテラスレストランでひと息ついて、今度は神明通りを荻窪方面に少し南下します。昭和24年から約3年住んだ部屋の当時住所は西荻窪1-1。『貸間さがし』に出てくる二階建の小山宅はもうなく、アパートになっていました。すぐ先にはかつて田村泰次郎(小説「肉体の門」で一世を風靡した作家)の邸宅跡があります。萬里さんは中学3年生の時に都立高校の受験を考えて上京してきましたが、その数年もの間、時折夫人が上京する時以外は木山捷平は一人暮らし。不自由な生活の上に、心身の調子を崩して執筆ができませんでした。
そのあと、よりよい部屋を探して(その間、みさを夫人が金策と新居の土地探しに奔走していた)2回近くに転居をしていますが、昭和27年の12月、晴れて木山捷平一家は練馬区の立野町に移ります。
西荻時代には駅前の南口(今だとパチンコ屋から柳小路通りをすっぽり含む三角に囲まれた繁華街にあたります)の寿司屋に中華屋、飲み屋にバーに碁会所と、日記に出てくるのでその界わいを歩いていた木山捷平を想像しながら、南口の駅前で散歩は終了しました。

 下見をした時には気づかない古い建物や、参加者の知っている場所なども加わって、秋の散歩シーズンにぴったりの楽しい2時間半のコースとなりました。

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